理想主義者と現実主義者

私はミシャを理想主義者だと看做していた、
浦和の指揮を執るまでは。

ミシャ率いる広島が浦和と対戦した時、
パスサッカーという代名詞で語られていたイメージとは
違った印象を受けた。
それは浦和のほうがボールポゼッションしていたからだ。
リトリートとカウンター、
攻守時の極端なポジション取り、
ポゼッション自体は巧いけれどそれ自体に拘らない姿勢は
印象に強く残っている。

今ならばわかる。
ミシャがリアリストだからだ。

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試合自体は非常に高レベルで
ファウルも少なく、非常に緊迫したテンションマッチだった。

FC東京と浦和は引き分け、
結局どちらの方が優れているかなどは
シーズン終了時、もしくは個々人の判断に依るしかないのであろう。

しかし、ボールは丸く、試合がどちらに転ぶかは
常にサッカーの神様しかわからないからこそ、
この不毛な議論を、勝敗を超えた何かに委ねたいと思うのだろう。


また、今回も監督達が試合後に自身のサッカー観を語っている。

ポポヴィッチ監督
片方のチームは試合を壊すサッカーをする。

ミシャ
片方は、ショートパスを多用して、我々の自陣の30mぐらいまでは危険なプレーをしていた。
もう片方は、ショートパスを多用するが、相手の背後のスペースを狙ってロングパスを使う具体的にゴールへと迫るサッカーをしていた。


ポポヴィッチはイデアリスト(理想主義者)である。
ボール支配とショートパスでの崩しに拘りを持っている。
強者のフットボールを体現したいのだろう。
自身の信念は正義であり、
それ故に相手チームを見下すような発言をしている。

「アンチフットボールである」と。

彼の理論を駆使すれば「自分たちのサッカーをすれば勝てる」のである。

「絶対」の意味は「他に比較するものや対立するものがないこと」
または「他の何ものにも制約・制限されないこと」である。

そこに相手は居らず、理論的にずっとボールを支配し続けられはずなのだ。


ミシャはここで自身のサッカーを披瀝している。
「具体的にゴールへと迫る」と。
ゴールから逆算して一番近い中央突破をまず狙い、
楔を入れて無理と判断すれば、空いたサイドを狙う。
ボールを回したいからではなく、
ゴールを狙う為にボールを回す。
攻撃時、相手のプレッシャーが強い中盤を回避すると同時に
ポジションをアンマッチドさせるために、4−1−5に変化する。

通常、カウンターを強調するチームは
プレッシングを多用する。
より高い位置でボールを奪えれば
ゴールまで速く辿り着けるからだ。

しかしミシャはリトリートする。
相手がハーフラインまで押し上げたバックラインの裏のスペースを
使いたいが為である。
ボールを支配したい相手は格好の餌食となる。

リアリスト(現実主義者)は常に
相手の「相対」を狙うのだ。

もしくはシュールレアリズム(超現実主義)なのかも知れない。
現実離れした極端で異端な戦術を駆使するという点に於いて。

ただリアリストにおいて
成し遂げたいのは唯一結果のみである。
ゴールを穫るため、勝つ為の戦術をしているからには
ロマンチストに負ける訳にはいかないのだ。

ミシャはその悔しさを吐露している。
Q:すごくハラハラするゲームでしたが、勝たせていただきかったですね。
「ただ、私が浦和の監督である限りはなかなかそうはさせない。
他のチームには勝利することはできても、私のチームは東京を勝利させることはない。」


でも実際、ミシャはこんなにもリアリストだったのだろうか?
広島在籍時はもっとイデアリストの香りがしたはずだ。
浦和というクラブの規模と観衆と、栄光への渇望がそうさせるのだろうか?
それともイデアリストがリアリストの仮面を被っているのだろうか?

シュールレアリズムには違う訳し方も存在する。
「絶対的現実」


この試合、完璧な崩しは2つあった。
槙野からポポ、梅崎のシュートに至った場面と
ポポのクロスからマルシオのボレーである。
この2本のシュートは「絶対」であった、
GKを除けば。