偽物のサッカージャーナリズム

プロリーグ立ち上げから20年に満たない日本にも
サッカージャーナリズムは存在する。

記事を読みたいと思うジャーナリストもいれば、
名前を見て読むのを避けるジャーナリストもいる。
ただ、それは個人的な好き嫌いでしかない。

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批評という観点から、
様々なサッカーの捉え方は存在する。
「サッカーの試合を考察する」
「戦術を分析し、解説する」
「カルチャーとしての魅力を紹介する」
そんな中、
海外で活躍する日本人選手がアイコン化すると同時に、
サッカーという文脈を使い、
ジャーナリスト自身がアイコン化していく時代があった。
サッカー文化圏で活躍する日本人選手は、
日本人にとって「コンプレックスの打破」であり、
アイコン化したジャーナリストは「良き代弁者」であった。

アイコン化したジャーナリストの功罪は、
ヨーロッパ圏のリーグと一流選手の紹介であり、
多くの関心を集め、
畏敬の念と「コンプレックスの打破」によるカタルシスをより一層高めた。
代表チームも海外選手に依存し人気を博し、
それによる国内リーグの軽視、衰退に繋がったが
多くの人は気にしなかった。
海外選手が活躍し続ければ、
ウィン・ウィンの関係でいられたからだ。

しかしそう長くは続かなかった。
海外選手は減り、
有名リーグで活躍する日本人選手がいなくなると
彼らを支持する人々は飢餓感に喘ぎはじめた。
極度に肥大化された「欧州コンプレックス」は
解消される術を失ってしまった。
アイコン化されたジャーナリストはここで新たな道を拓く。
コンプレックスを抱くアウトサイダーではなく、
コンプレックスを抱かせるインサイダーに組み込まれるよう導いていった。
日本人のいない欧州リーグに同化していく。
レベルの高いスペクタクルな試合を求め、
ヨーロッパの多くの一流選手を知りながら、
日本代表以外の日本人選手を知らない人々を生み出していった。
戦術をロジカルに解くことで彼らの支持と信頼を得ている。

そんなジャーナリストたちの書く記事には癖がある。
ヨーロッパサッカーへの見識をひけらかし、
様々な「ヨーロッパの」フォーメンション論や戦術論を引き合いに出し、
サッカーという批評対象を使い、存分に自己主張する。
ヨーロッパへの憧憬を感じ、
サッカーへの愛情を感じさせない。

彼らがヨーロッパの2流、3流リーグの試合を書いた記事を見たことがない。
南米リーグには興味はないのだろうし、
自国リーグも彼らには取るに足らないのであろう。
ただ、彼らと彼らの支持者は気付くべきである。
ヨーロッパへの深い愛情は単に「コンプレックス」の裏返しに他ならない。
その証左として、ヨーロッパの一流しか認めようとしないからだ。

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著名なサッカージャーナリストで
W杯開幕前に「日本負けろ」と書いた方が2名おられる。
金子氏「負けろ、日本。未来のために」
杉山氏「W杯日本代表は正々堂々と全敗せよ」

日本代表が予想を覆し、予選グループを突破したからといって、
それを糾弾する気は毛頭ない。

ただ、「自国代表すら素直に応援出来ない」ことの残念さを思う。
その「コンプレックス」故に。


「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」
フランツ・ベッケンバウアー

「所詮、人間の敵は人間だよ」
碇ゲンドウ