音楽という概念を意識し聞き始めたのはいつか、はっきり覚えていない。
ただ「自覚的に」音楽を聴くことを止めたのは、覚えている。
Carl Michael Von Hausswolff/Strom
このCDを聞いてからである。
(断っておくが、このCDは傑作である。)
Carl Michael Von Hausswolff/Strom
RASTER-NOTONからリリースされたこの作品は、
空中を行き交う電波を短波ラジオで傍受したノイズ(途中人の声が辛うじて聞き取れるノイズも入っている)をエディットしたものが1トラック48:13収録されている。
通低音的なノイズに周期的に電波を想起させる粗いノイズが絡む、ミュージックコンクレートな作品。
Alva Noto,Ryoji Ikeda,Pan Sonic
電子音響を「自覚的に」聞いてきたのは、
アナログな音楽が「実時間性」と「非再現性」により常に「音楽」として存在するのに対し、
デジタルな音楽は、それを制作するツールの「多様性」により狭義の意味での「音楽」を越え、
発展してきたからである。
エンターテインメントとしての音楽の飽和は、
聴者の飽くなき欲求を満たすため、
ジャンル音楽のクロスオーバーを迫り、
それが飽きるとリバイバルへと向かう。
新しい手法で「新しい音楽」を切り拓こうとした電子音響も例外ではなく、
ある意味ではリバイバルであった。
無限の可能性の俎上で形作られたサイン波やノイズは、
無限の荒野で太鼓を叩き、歌い、火がパチパチと音を立てる
原始的な民族音楽と類似している。
音階を定め、和音を決め、譜面を元に作られる西洋音楽史とは無縁の音楽である。
エモーショナルなリズムはノイズで刻まれ、
伸びやかな歌声はドローンとなった。
自ら好き好んで音楽の範疇からこぼれ落ちそうな音楽を聴いてきたのは、何故か?
それは音楽の概念を捉える為だったことに気付いた。
メルツバウのハーシュノイズも
クセナキスの建築学を用いた音楽も
渋谷慶一郎の3次元音楽も、やはり音楽であった。
ジョン・ケージの4分33秒の概念もとても音楽的で、
またある種のフィールドレコーディングにも捉えられた。
さて、このCDである。
自分には、このCDが音楽とインスタレーションの境界となった。
ソースはラジオで傍受したノイズであり、
その情報を得た上での聴取であったことは影響しているかも知れない。
しかしこの素晴らしいインスタレーション作品に出会った後、
この種の音楽を手に取ることは極めて少なくなった。
それは、「音楽」という範疇の線の一部分を垣間見れたからかも知れない。
ただ「自覚的に」音楽を聴くことを止めたのは、覚えている。
Carl Michael Von Hausswolff/Strom
このCDを聞いてからである。
(断っておくが、このCDは傑作である。)
Carl Michael Von Hausswolff/Strom
RASTER-NOTONからリリースされたこの作品は、
空中を行き交う電波を短波ラジオで傍受したノイズ(途中人の声が辛うじて聞き取れるノイズも入っている)をエディットしたものが1トラック48:13収録されている。
通低音的なノイズに周期的に電波を想起させる粗いノイズが絡む、ミュージックコンクレートな作品。
Alva Noto,Ryoji Ikeda,Pan Sonic
電子音響を「自覚的に」聞いてきたのは、
アナログな音楽が「実時間性」と「非再現性」により常に「音楽」として存在するのに対し、
デジタルな音楽は、それを制作するツールの「多様性」により狭義の意味での「音楽」を越え、
発展してきたからである。
エンターテインメントとしての音楽の飽和は、
聴者の飽くなき欲求を満たすため、
ジャンル音楽のクロスオーバーを迫り、
それが飽きるとリバイバルへと向かう。
新しい手法で「新しい音楽」を切り拓こうとした電子音響も例外ではなく、
ある意味ではリバイバルであった。
無限の可能性の俎上で形作られたサイン波やノイズは、
無限の荒野で太鼓を叩き、歌い、火がパチパチと音を立てる
原始的な民族音楽と類似している。
音階を定め、和音を決め、譜面を元に作られる西洋音楽史とは無縁の音楽である。
エモーショナルなリズムはノイズで刻まれ、
伸びやかな歌声はドローンとなった。
自ら好き好んで音楽の範疇からこぼれ落ちそうな音楽を聴いてきたのは、何故か?
それは音楽の概念を捉える為だったことに気付いた。
メルツバウのハーシュノイズも
クセナキスの建築学を用いた音楽も
渋谷慶一郎の3次元音楽も、やはり音楽であった。
ジョン・ケージの4分33秒の概念もとても音楽的で、
またある種のフィールドレコーディングにも捉えられた。
さて、このCDである。
自分には、このCDが音楽とインスタレーションの境界となった。
ソースはラジオで傍受したノイズであり、
その情報を得た上での聴取であったことは影響しているかも知れない。
しかしこの素晴らしいインスタレーション作品に出会った後、
この種の音楽を手に取ることは極めて少なくなった。
それは、「音楽」という範疇の線の一部分を垣間見れたからかも知れない。
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